第1回「旅しても、旅しなくても、旅」
子供が純真な目をしているとは、大人のそれこそ純真な思い込みだ。純真と称される目の正体は、ヤツらの経験不足か、あえて言えば単なる無知である。知らないことや初めてのことを目の当りにすれば、それが海であろうが滝であろうがシロコロホルモンであろうが、子供でも大人でも驚き(感動と呼んでもいいよ)に目を丸くし、息を飲み、唾を飲みこむ。
ところが大人のいいも悪いもなんとも言いがたいところは、せっかくの驚きはすぐに既得の尺度で一般化され(パリの凱旋門を見たいと念願していたけど、実際見てみるとまあこんなもんかな)とか、(シロコロホルモンというご当地B級グルメは興味深いが、静龍苑の塩ホルモンでも代用できる)と、すぐに経験倉庫に収納される。残念なことだが、今さら無知のまま生きていけるわけもない。
ところで表題の「旅」である。私的結論から言うと、旅とは文化の落差の確認である。日常と非日常の落差と言ってもいいし、普段の生活と旅先の食べ物や言葉や生活習慣の差異であってもいい。大人たちは、忙しい日常を逃げるように抜け出して、 浮かんではすぐに消えていく泡のような驚きを見つけるために旅に出るのだ。頑張ってるではないか。いじらしいではないか。しかしそう考えれば、旅に出てもいいし出なくてもいいとも言える。落差が確認できればいいのだ。
ぼくは中学と高校が同じ学校(関係ないが、男子校)だったもんで、高1ともなれば通学の車窓の風景など見飽きたを通り越している。あるときぼくは、同じように自分の人生の朝に飽き飽きしている通勤通学の人々を見ながら、もしぼくが外国からの昨日来たばかりの観光客だったらどう見えるんだろうこの風景、と思った。で、やってみると不思議なもので、車窓に連なる小さな家々にも、座席で居眠るニッポンのプリティなジョシコーセーにも見事に興味がわいてくる(後者にはもともとたっぷりわいている)。電車の中で老若男女が、収容所のバスに知らない同士が乗り合わせたような顔で立ち尽くしているのを、なぜこれまでヘンに思わなかったんだろうと意外な見え方に興奮して、2日間夢中になってそれにも飽きた。その遊びには飽きたが、脳なり、気持ちなり、心なりが勝手に動き出す不思議な感覚(人はそれを妄想と呼ぶ)は、この中年男にまだこびりついている。
旅と日常が対応する言葉だとしても、それは位置的に彼岸と此岸を隔てるものではないと思う。先に述べた私的結論、「旅=落差の確認」を発見と言い換えてもいい。その発見があれば、少なくともぼくが表題に掲げる「旅」だ。要するに、どこか遠くに旅してもいいし、近場でも構わないし、どこへもいかなくてもいい。ニューヨークに1か月滞在しようと、南千住で日比谷線を降りようと、いつもと違う角で曲がろうと、発見があれば旅として等価だ。しかもその発見は現実でなくてもいい。頭の中で気づいたことでもいいんだぜ(妄想絶好調)。
そんな旅の話を、これからこのペ ージで書いてみようと思っている。 温泉が嫌いな話とか、全国県庁所在地巡りのこととか、アーケードマニアの告白とか、鶯谷で昼間から延々飲み続ける体験記とか、そんなことである。小島の4コマは面白いはずだが、ぼくの部分は役にも立たないし、ましてやコピーがうまくなるわけもない。とにかくたまには、自分のやりたいようにやらせてもらうからね、と。
宣伝会議「ブレーン」2010年5月号掲載
※「ブレーン」の誌面では、このサイトの山本の似顔絵を描いてくださっている小島洋介さんの4コママンガとともに掲載されていました。