コトバのコトバ

第6回 アキラ

医学部の入試が終わった。今年もたぶんダメだろう。
ダメなら3浪ということになる。もしあきらめなければの話だが。
ユキは電話に出ない。まだバイト中ということか、そうじゃないのか。

 

彼女は長兄の娘のベビーシッターだった。ぼくが16才の時にうちに来た。

もともとは父親の古い友人の娘で、その人が亡くなって身元を引き受けたらしい。

3才年上だった。今でもそうか。
決して人目を引く美人ではないが、

男子高校生が一つ屋根の下で暮らすのは刺激的過ぎた。
やがてどちらからともなく惹かれあい、

両親の目(と兄の娘の目)を盗んでぼくらは一組の恋人になった。
深夜ユキの部屋を訪ねては、息をひそめて彼女に抱きついて眠った。

ユキは「アキラさんたらもう!」といつも笑ってた。
ぼくが家を出てしまってからは年に2、3度会える以外は、

電話やメールくらいしかなかったが、

去年の春、ユキがいきなり東京に出てきた。

後で聞くと、両親が監視に差し向けたらしい。

そういうところ驚くほど鈍感な人たちだ。

鈍感に感謝。

しかし初めて会った日から、たわいもないケンカや、あいまいな約束や、

ぼくのへたくそな愛撫でつむいできた赤い糸も、

いまや指でこすれば煙のように消えてしまいそうだ。

会わなかったブランクを埋める努力をするには、

たぶん二人とも気持ちのピークは越していた。

彼女もそれは了解しているくせに、せめてぼくの進路に結論が出るまでは

二人のことに結論を出すことは罪悪だと信じているかのように、

時間をつくっては会いたがった。

しかし彼女の「すすんでる?」という両親への義理立て?から始まる会話は、

共有するものが少なすぎるゆえにすぐ行き詰まり、

話題はすぐにお互いの近況報告のようなものに移る。
近況報告なんてまともな恋人たちのすることか?

それはもう終わっているということじゃないのか?
二人は、日曜のにぎやかな渋谷でつぎの約束もせずに別れる。

ずいぶん前の話だ。いまはもう3か月間会ってない。
劇団の飲み会が終わったあと、今日もコンビニでビールを買った。

この頃寝酒をしないと眠れなくなった。
ハタチの浪人生のセリフではないな。

大学に行く気がないなら、浪人生とは言わないか。
父親からメールが来た。

試験も済んだし来る頃だろうと思っていた。

「報告せよ」簡潔にして乱暴。さすがだ。
「全力を尽くしました」とだけ返した。

どうせ彼は結論にしか興味がない。
要領のいい兄二人は、偏差値のいくらかを寄付金で補える医大にすすみ、

すでに父親の経営する病院で働いている。
東大や慶応という名前で父親のコンプレックスを刺激し、

福岡から逃げ出した末っ子がこんな有様だと知れば、
2時間半後には部屋のドアを叩き破っているだろう。

子供の頃から酔った父親に殴られ続けた。
ぼくの鼻が右に少し曲がっているのはそのせいだ。
父親はつらそうに酒を飲んでいた。

子供心にそんな顔するくらいなら飲まなきゃいいのにと思いながら、
機嫌が悪くならないようにと祈っていた。

機嫌のいい時にはぼくをつかまえて「アキラはおれ似や」と笑った。
冗談じゃない。ああはなるまいと生きてきたんだ。

酒好きだけは似てしまったが。15の時から飲んでいる。
ちなみに二人の兄は下戸だ。
父親が節税目的で買っておいた港区の高層マンション。

その28階のだだっ広い2LDK。
劇団の人間は誰もぼくの生活なんか知らない。

きっと中央線沿線のアパートにでも住んでいると思っている。
どこに住んでるかなんて興味もないだろう。

あそこはほんとうの自分を見せる場所ではない。
マサコさんはいつも同じ服のぼくに、ユニクロのカシミアセーターをくれた。

こういう時は悪いかな、と思う。
ところがなぜか座長だけは独特の嗅覚で事情をなんとなく把握していて、

なにをどう思ったか
坊ちゃん育ちをスキャンダルだとでも言うように、

事あるごとに劇団の金銭的な窮状を嘆いてみせる。
ライトな恐喝だ。役者が金持ちでも恥ではない。

ただぼくの生活について話すことは、父親を語ることだ。避けたい。
劇団を運営していけるのも、彼がキャバクラに通いつめられるのも、

ぼくの(父親の)送金のおかげと言える。愉快だ。
座長がいつかの飲み会で、アルコールには

「忘れ酒」と「思い出し酒」という2種類があると言った。
いやなことを忘れる。と、楽しいことを思い出す。

たまにはヤツもまともなことを言う。どうせ受け売りだろうけど。
そう言われてみて自分はどうしようもなく「思い出し酒」だなと思う。

どんどんどんどん思い出す。いつもそうだ。
忘れる酒は発散するんだろうか?思い出す酒は積み重なる。

意識の下からもそもそ、あれこれ出てくる。
今日会った人。さっき聞いた話。

あの時はどうだった。おいしかったね。

あれはどうなった。まずかったね。
何気ないことも積み重なれば重い。

そこに湿った思いが覆いかぶされば、やがて下のほうから腐り始める。
そうなると酒はつらい。

しかもその頃にはそこから這い出る知力も体力もおぼつかない。
ほんとうに演劇なんかやりたいのか。

ほんとうの自分。

逃げだ。父親からか。医学部か。

あんなの演技じゃない。
みんなにウソをついているぞ。

誰か違う人。ここじゃないどこか。

自分は嫌いか。父親はほんとうに嫌いか。疲れた。
積もった思いは気持ちの底に沈殿し、どろどろどろどろ泥になる。

これがホントの泥酔・・・面白い?
ヘビーな寝酒だ。心穏やかな不眠か、心くたくたになって眠りに落ちるか。

今夜はとくによく眠れそうだ。
気にするな、いつものことだ。

さあてデトックスデトックスと頭の中で2回唱えて、トイレに泥を吐きにいく。
便器に顔を突っ込んだ時、相当ヤバイことに気がついた。

なんだ父親の酒もこの泥だ。泥を吐けずに窒息してたか。
なぜわかると聞かれれば、DNAか。あの父親のこの息子。さすがだ。
絶望の果ての大笑いだったっけか、高笑いだったっけか(by太宰)
フラフラで暗い部屋に携帯を探り、ダイヤルする。呼び出し音が続いている。
「アキラさんたらもう!」が酔った耳に聞こえたような気がしたが、
相手はすでに留守番電話サービスセンターを告げている。

 

 

アキラさんの電話を無視し続けている。

ほんとうの事情を、ヒトシさんに報告するべきなんだろうか。

そんな恐いことできるのだろうか。
親と子に別々のウソをつくのはもういやだ。