コトバのコトバ

第5回 マサコ

お稽古が終わってみんなでいつもの居酒屋へ向かう。
今夜もアキラくんにさりげなく歩調をあわせ、寄り添うように歩く。
この時間がいちばん好きだ。

 

火、木、土は劇団(座と呼べと言われている)の練習

(これは稽古と呼べと)が午後7時から2時間。場所は三鷹。

オフィスが青山で目黒が自宅の私は、行き帰りが厄介だ。

メンバーの月々の会費で成り立っている素人演劇。
みんな本業を持っている。

座長はテレビの時代劇でたまに斬られているが、

彼だって高円寺でバーを経営している。
座を知ったのは1年前のこと。

会社の女のコに連れて行かれた下北沢の小劇場。

彼女のお目当ては主役の濃い顔の男。
食事のついでくらいの気持ちでついて行ったら、

止まらないでぐるぐる回り続ける山手線、
そこに乗り合わせた客たちの心理劇、

という演劇に無知な私でも想像つきそうな展開。
退屈して脱け出すタイミングを探ったのだが、

舞台正面だったのでそれも叶わない。
「アンタ、アキバだよ。飛び降りなくていいのかい?」と毒づく女子高生。
「今夜はすき焼きなんだよ!」と車掌に詰め寄る中年サラリーマン。
大声を張り上げる役者さんたちには、いいストレス発散なんだろうな、

なんて思いながら眺めていた。
ただその中にひとりだけ、主役の次の次くらいの、

大学の入試に遅れてしまった受験生役の男のコ。20過ぎくらいか。
彼の声は弱々しく、初めは他の役者さんたちよりも下手に見えた。

でも彼の、私の鼓膜を不安げに震わせる声は、
やがてほんとうに試験に遅れてしまったのだとしか思えなくなる。

それからずっと、その男のコばかりを見ていた。
淡白だがきれいな顔をしている。

背があと10センチあれば濃い顔の主役の男を出し抜いてやれたのに。
結局打ち上げにも顔を出すことになり、

隣に座った(たぶん下心ありの)座長に彼のことを尋ねた。
「アキラは天才だよ」と面倒くさそうに言った。

そして、今思えば私はなんてことをやらかしたのだろう。
その場で座長に、参加したいのだがと告げた。

彼は私をじっくり見て年齢を聞いた。37と答えた。
彼はちょうど人妻役が欲しかったんだと言った。

その役ならもうやり飽きているのでやるつもりはないが、
とにかく私は合格したらしい。

自分自身でもとんだハプニングだったが、

発作的な行動には具体的な原因があるものだ。
当時抱えていた問題を克服するための遠回りなきっかけに、

アキラくんがなりそうだという勘があった。
勘はいいのだ。もしはずれてもストレス発散になればいい。
アキラくんとはすぐに親しくなった。

ロッカーの使い方も、あいさつの仕方も、教えてくれたのは彼だ。

彼をそばで見ることは幸せだった。
しかしもちろんあんないきさつで座に加わった私は、

上の人に指示されたとおりにカタコト動くだけ。
2度目の舞台のとき初めてセリフを貰った。

たったひと言だったが、そのたったひと言がうまく言えず(この私が!)
お稽古中みんなに迷惑はかけるわ失笑は買うわ。

落ち込んで帰り支度をする私を彼が呼び止めた。
そしていきなり胸をわしづかみにした。何人かが見ている。
私は「なにすんのよ、ちび!」と叫びその場にうずくまってしまった。
そこに「声出たじゃないですか」と見下ろす男を、

憎悪の限りでにらみつけるとその男は平然と続ける。
「マサコさんは読んでいたんですよ、これまでセリフを」だと。

 

私のひと言だけのセリフは「あんたのせいよ」だ。

性欲の強い幽霊に悪戯されるバーのマダム。
おかげでせっかく洗ったグラスをカウンターから落っことしてしまってわめくひと言。
そうかそうかそうか、こんな茶番劇で演技のご指導いただいたわけだ。

セリフは読むな、中から吐き出せと。
事態が飲みこめてきて、怒りで顔を紅潮させた私に

彼は大慌てで詫びたが、ひとの失笑を買ったことよりも、

胸を触られたことよりも、彼の、おそらく善意こそが屈辱だった(この私に!)
帰りの駅までの道、うつむきながら「あんたのせいよ」と呪うように唱え続けた。
そして私たちは仲良くなった。
アキラくんは、普段は電源の入っていないアイボのような顔をしている。

でも彼が役に入った時、もう彼は彼ではない。
もしかしたら役ですらない。

「元刑事の僧侶」「家庭不和の駐禁取締りのおじさん」

「冬眠の途中で目が覚めてしまった子熊」
うまく言えないけれど(資格もないけれど)Xという普通の役者さんが

Yという役を演じてもXで終わってしまうことがある。
ところが彼はXどころかYですらなくYになっているような気がする時がある。
しかし座長が言うには

「うますぎるんだよ。あれじゃ演技じゃなくて憑依だ。他のヤツらとからまねえ」
しかし、少なくとも私にとっては、アキラくんが居酒屋の隣の席でつぶやいた

「いろんな人になれるのが嬉しくて」に同意だ。
だから私も演劇をやっているのだ。演劇なんてどうでもいいのだ。

演じたいのだ。誰かになりたいのだ。
アキラくんを見ていると、

これまであまりに自分が自分しかやって来なかったことを、悔やむ。
(ただ彼は自分自身が嫌いなのではないか、とふと思ったことがある)
座の中で私は「姉御」というあだ名で呼ばれている。

若いコに人生相談をされたりもする。
アキラくんに気がある20も年下の女子高生から、

簡単な意地悪をされたりする(この私が!)
ちなみに「バーのマダム」はうまくいった。

「どうやって練習したんだ?」と座長に聞かれた。私は楽しんでいる。
お稽古の休憩時間や終了後に、アキラくんから短いレッスンを受ける。

彼がお題を出して私が演じてみせるというもの。
私は相変わらず及第点は貰えず、

いつも彼のお手本に感心したり大笑いしたりしている。
「いつもふたりでいると、デキてるんじゃないかって言う人いますよ」と

少し困った顔の彼に、胸を触った罰よ、と返す。
「でも、ちびは余計だったな」とむくれる。痛み分けよ。
もちろんアキラくんとそれ以上の関係などないし、これからもないと思う。

夫を(ものすごく広い意味で)愛している。
しかしもう修正は不可能だ。なぜなら私はXでもYでもいようと思わないから。
役柄を探し続けている。私はそのための方法を知らない。

今しばらく、アキラくんが必要だ。

 

 

医学部の入試が終わった。今年もたぶんダメだろう。
ダメなら3浪ということになる。もしあきらめなければの話だが。
ユキは電話に出ない。まだバイト中ということか、そうじゃないのか。