コトバのコトバ

主観は偏見である。

ぼくの友達に、よっちゃんがいる。アートディレクターをやっている。

ぼくから見れば、長い付き合いの、親友と呼べる男だし、ときどき一緒に仕事もするので、頼りになる仲間だ。

業界的に見れば、実力のある中堅アートディレクターで、彼の事務所のスタッフから見れば怖い社長であり、仕事の先輩だ。彼が以前いた事務所から見れば元社員。奥さんから見れば夫。娘から見ればパパ。お兄さんから見れば弟。おとうさんから見れば息子で、おかあさんから見れば、やっぱり息子。家のお隣さんから見ればお隣さんで、昔の彼女から見れば、元カレ。よく行くラーメン屋の店員から見れば、よく来るお客だし、たまたま乗ったタクシーの運転手からみ見れば、名前も知らない客。街を歩いているときは、ただの通行人。

ざっと考えただけでもこれだけあるよっちゃん像の中で、ぼくはときどき一緒に仕事をする親友としか見ていない。つまりぼくの主観は、一方向からの見方にすぎない。つまり、偏見だ。

主観は偏見である。しかも、ヤバいことに、ぼくらは主観しか持っていない。

 

『案本』から。

 


芸術も、選ばれてナンボ。

ゴッホがほんとうに、世間の承諾も賛同も必要としていなかったかはさておき、仮にそうだとして、そんな孤高の生涯だとしても、最終的には承諾されてしまったのだ。選ばれてしまったのだ。だから芸術史に名前が刻まれているのだ。価値があって選ばれたというよりも、選ばれたから価値が生じたのではないか。

ゴッホ本人が、選ばれたかったか、そうじゃなかったかという彼個人の考えは、ここでは重要ではない。芸術史に芸術として残るものは、ほくらが芸術作品と呼ぶものは、すべて選ばれてそこにあるのだ。つまり選ばれなければ、芸術という名前すら与えられない。

選ばれることによって、芸術史に名前を刻んでいるのは、ゴッホだけではもちろんない。ビートルズだって芥川龍之介だって、あるとき選ばれていなければ、不動の歴史的地位も、望みようもなかった。

つまり、芸術も、選ばれてナンボ。

 

『案本』から。