コトバのコトバ

第3回 ユリア

最後の客が今帰った。つまりタケシさんは今日も来なかった。

メールは知っているが、

そこに連絡することがあまりよいことではないことも知っている。

大きく肩で息をして、商売用のコスチュームを脱いだ。

 

 

彼は来るときはほぼいつも夜10時くらいに来る。

私はその前後に指名が入るとひどく緊張する。

バクバクする心臓が口から飛び出さないように、

息を止め唇を固く結びドアノブを引くと、

このところ100%の確率で願いは裏切られる。

そして私は重大な秘密を読み取られまいとするように、表情を消す。

彼と初めて会った時のことを私は覚えていない。

私は安易に他人が記憶の中に留まることを許さない。

とくにこのような匿名の場所では、

誰が誰だと特定するような意識は排除するべきだと思う。

もっともあえて努力しなくても、ここに来る男なんてみんな同じ。

年齢や体型や身なりはいろいろだ。

ひとの話を聞けないデブオタ。

ずっと下向いたままのおそらくこういうところ初めての学生。

スーツのパンツを折り目をはずしてハンガーにかけたと、私に怒鳴ったサラリーマン。

いろいろだ。しかしここに来る目的のために裸になってしまえば、似たような個体。

どうやら男たちのカラダにはいくつかのボタンがついていて、

どこをどう押せばどうなるかはあらかじめ決まっている。

私の仕事はそのボタンを順番どおりに押してやることだ。

そうしてやれば彼らはおとなしく帰って行く。流れ作業。

とりたてて個体差はない。個体差がなければ、感情が動いて疲れることもない。

こんな自分の性格を思う。

高校を卒業してすぐだったか、

いきなり友人が「インナーチャイルド」の話を始めた。

なにも知らない私に彼女がする雑な説明によると、つぎのようなものらしい。

大人の性格は、とくにそれがネガティブなものであれば、

それは幼い頃に傷ついた経験が原因になっている。

さあ目をつぶってぇ、幼い頃の自分を思い描いてみましょう!

なんて友人が声を1オクターブ上げて始めるものだから、

吹き出してしまうのだが彼女はおかまいなしに、

その子はぁ、笑っていますかぁ?泣いていますかぁ?

もし泣いているのであれば、そばにいて話をしてあげてください。

辛かったよね、淋しかったよね、よく頑張ったよね。

私は言われるままに、

でもその儀式に付きあっているおかしさに

笑いをこらえながら目を閉じてたら出てきた。

淡い陽の光の中で、子供の頃の私が泣いている。

私はその記憶の場所すら覚えていた。

泣いている原因もどんな気持ちかも、彼女に聞くまでもない。

彼女は私なのだ。

東北の地方都市から父親の転勤で引っ越してきた。

初日。昼下がりの公園。たしか春。

初めて会う地方都市以外のさまざまな物事に戸惑いながらも、

同い年くらいの子供たちに話しかけてみる。

ところが今思えば方言のせいだったのか、なにを話しても通じない。

驚かれ泣かれる始末。

大人たちもこの侵入者に困ったらしく、

私の言葉に耳を貸す代わりに目で保護者を探し始める。

4才児に自分の言葉が通じないほど絶望的なことはなく、

ふつうに振る舞うだけで加害者であるかのような状況にただ立ち尽くしながらも、

芯の強い子だと地方都市ではほめられていた女児は、

号泣が心の壁から漏れ聞こえないように歯を食いしばっている。

そんな突然のリプレイに大人の私ももういちど立ち尽くし、

私のインナーチャイルドを癒してあげるのも忘れたから、彼女は今も泣き続けている。

おもしろい体験だった。

しかしそれが傷でこうなったと信じるほど単純ではない。

むしろこうだ。

私は傷つくと閉じる性格なのだ。もともとそうなのだ。

その証拠に、やがて丸2年の引きこもり生活に入った。

自分と戦うより、馴れあったほうがラクだからだ。

そして20才になって家を出ようと思い、風俗嬢になった。

理由は人と会いたくなかったから。

私はこの小箱の中でなら日に数人としか会わないですむ。

世の中にいたらそうはいかない。そんな性格。

タケシさんに初めて会った時のことは覚えていないと言った。

でも彼が彼であると認識した夜のことは覚えている。

私がいつものような流れ作業で彼のボタンを押しながら、

ふと顔を見やると悲しそうな眼で上を向いている。

まるで天井に悲しい物語が書いてあってそれを泣きながら読んでいるかのように、

しかしその嗚咽を外に漏らさないように唇を震わせている。

その時はキモイヤツでしかなかった。

だってそんな行動をする男が存在することだけで面倒くさい。

ただ彼の眼のことは夜どおし気になった。

彼は2日後にはもう来た。懐かしいに近い気持ちが不思議だった。

タケシという名前。33才。

私でも知っている広告代理店の名刺。

前戯代わりの話がおもしろく、というかおもしろがっている私がいて、

声を出して笑っている。

歌手のAはゲイでスタジオでは女子トイレを使う(えーっ!)とか、

以前フットサルで試合中に骨折した時あばらが2本飛び出して

自分で押し込みながらシュートした(ウソばっかり!)とか、

オフィスの近所のカレー屋はコロッケカレーにカツをのっけると850円で

カツカレーにコロッケをのっけると880円だから

ぼくはカツカレーにコロッケをのっけるんだ(それ自慢?)とか、

話よりも彼の声に反応するように、私、笑っている。

しかしやはり彼の下半身に触れる頃になると、

あの眼で天井を見つめ始める。毎回だ。

ちゃんと出会ってから5度めに思い切って、

でも滅多に人に自分から話しかけることのない私は話の間合いがうまくつかめず、

いたずらっぽくってこんな言いかたかしらのイメージで、

奥さんのこと考えているんでしょ?って聞いた時の、彼の顔!

話をそらす脇道もなく途方に暮れて萎えた男性器を握りしめていると、

ついでに彼のあの眼が、あの公園の私の眼だと気付いてしまう。

そして彼は重要な人になった。

あれから彼は8回来た。もちろん手帳につけている。

私の名前は本名で呼んでもらっている。

規則では禁じられているけれど3度セックスをした。

3度めにしたのは2週間前の水曜日だ。

それ以来彼とは会っていない。

同じ店で働く女の子が、最近私の肌のつやがいいと言った。

恋をしているからだ。

 

 

9時か。この時間に帰ってもマサコは帰っていないだろう。

2年前に結婚した。いい夫婦の日だ。

その頃は幸せだったのか、幸せになろうとしていたのか、もう思い出せない。