コトバのコトバ

第1回 ミキ

あ、この人は右利きなんだと気付き、こんなこと、いつかどこかで

あったようなと思い(アレだ)と突きとめる。

突きとめた先がヘンなところで、
そんなこと忘れていた自分がおかしくて小さな笑い声をもらしたら、
テーブルをはさんで差し向かいの男が、

自分の話をさえぎられた不快感を眉間のあたりに表明している。
ヨウイチと暮らし始めてからいちどだけ浮気をしたことがある。
確かにあのときも、いまや顔も思い出せない相手を、ヨウイチと較べていた。
胸の匂い、舌の感触、指の節の太さ。

目の前の、珍しい柄のネクタイの男と繰り返す気はさらさらないけれど、
こんな場のやり過ごしかたとしては、こんな遊びは役に立つ。

 

 

私が度重なるお見合いの勧めに屈することにしたのは、

ヨウイチへの嫌味の意味合いもあったはずだが、

反対される期待もなかった。

今朝部屋を出るときも、まだパジャマ姿の彼に
「どうだったかあとで教えてね」と言われるくらいで、嫌味にもなってない。
お見合い話を積極的に動かしたのは母だ。

男と3年も同棲している娘を、

本気で誰かに押しつけるハラならなかなか笑える猛母だが、

現実はおかしくもなんともない。
私は来月で31才になる。

31才という年齢は母の友人の入れ知恵によると、
「バーゲンセールの午後3時」らしい。

もういい相手は残ってないわよ、がそのココロ。
意地も趣味も悪いなぞかけだが、母にはそれを笑い飛ばす様子もない。
親のいちばん嫌がることは、

子が自分の理解の範囲から逸脱することじゃないかと思う。
このお見合い話を、直接結婚に結び付けたいというよりも、
どうか自分の理解の枠内に留まっていてくれという祈りに近い。

娘の人生についての好ましくない予感を
「残りものに福って、ないものよ」と

明るく覆い隠そうとしていることくらい、見ればわかる。
それを知った以上、母の願いに抗うことはできない。
なによりも、彼女の好ましくない予感がわかるということは、

私の中にも同じものがあるということだ。

当事者どうしがメールをやりとりして会う。

こういう方式が増えているらしい。
3度めのメールで指示されたのは、ありきたりなホテルのコーヒーショップ
(お見合い黒帯の友人は、ヤツいつもそのパターン踏んでるね、と分析してみせた)。
そこにいた午後5時でも間に合いそうな男は、39才で大学の講師、専門は古代史。
これから始まる講義のテーマは3つ。

自分のこと。

自分の仕事のこと(発見されたばかり!の古代遺跡)。
自分の家のこと(親の出身校のこと、家の間取りのこと)。

つまり、私の共有できる話題のかけらもない。
しかも話は強引なくらい具体的で、

関西の研究所のポストが空いて自分の今後のためには

行ったほうがいいのだが親のことも気になるし、

できみはどう思う?ってその件、

私に関係があるという前提でしゃべっているの?

まだ血液型すら聞かれてないのに。
(ねえ、たいへん!私遠くに持って行かれちゃうよ)と

ヨウイチに話して聞かせる笑い話を、頭の中で組み立ててみる。

しかし想像のつく彼の反応は「そりゃ困ったね」とやさしく笑う顔。
私はその顔が、不満でならない。
しかし講義は続き、博物館の順路に従うように、メインダイニングへと移動する。

 

結婚しないと言ってる男に、結婚しようか?と言ったことがある。

2年前の暮れだったか。
ヨウイチは心底驚いた様子で「どうしたの?」と聞き、

私はどうもしないと答えた。
以来私はそのテーマを放棄してきた。

いま目の前に「夫婦は(こう)あるべきだ」と語る男がいる。
「べきだ」と言う言葉を聞くのは、久しぶりだ。
「ぼくらの世代は(こう)あるべきだ」

「このソースなら、魚はヒラメであるべきだ」
べきだ、ねばならない、に違いない。

そういう話しかたを、ヨウイチはしない。
例の浮気が結局バレたときだって、最初の言葉は「どうしたの?」だった。
声が違う。利き腕が違う。笑ったときの唇のかたちが違う。
(ねえ、この人、笑うときに唇を尖らせるんだよ)と

心の中でヨウイチに笑いかけようとしても、こんどは像も結ばない。

そして不意に、この時間つぶしの遊びが、

アレもコレもヨウイチの不在を確認するためのものだと思い至るなんて、

ちょっと残酷じゃないの?
やっかいなドアを開けたもんだ。

気持ちを逸らすように高層階の窓から見る空は、
悲しいくらいからっぽな青。

そこに2本の飛行機雲が、思い思いの方向にのびているのが見えた。
強制や束縛とかの努力を厭わないことで、ふたつの線は寄り添えるのか?
というテーマを伝えるために、誰かがこのよくしゃべる男を差し向けたのか?
今夜ヨウイチに話して聞かせるべきことは、

どうやら笑い話じゃなさそうだ、と思って「べき」に気付き、苦笑い。
テーブルの向こうの男は、話をさえぎられて眉をしかめている。

 

 

ホテルを出て彼女の乗ったタクシーを見送る。

きれいなひとだったが、もちろん断られるだろう。

こうなることを見越していたように、ユリアの予約はもう入れてある。
今日は出勤しているようだ。