コトバのコトバ

第 17 回 トモミ

今日の昼ごはんは、鮭のムニエルだった。
どうして病院の食事は、匂いがきついんだろう。冷たい料理のほうが、まだ救われる。
またわがままを言って、マコト君にお付き合いしてもらった。

 

体調のいい日、イコール食欲のある日は、

マコト君を引っぱって、病院の正門の向かいにある喫茶店に行く。
カフェではない。喫茶店だ。私はかならずカレーを食べる。

病室で食べておいたほうがまだよかったかもと、
その店で後悔させられたことが二度あり、カレー以外のものは危なっかしくて頼めない。
貴重な外食の機会だ。冒険はできない。だから、カレー。

ときどき、カツカレー。カロリーをたくさん摂りたい。
病院からワンブロック歩くと、評判のラーメン屋があると聞いたが、それは本当の冒険になる。
よたよた歩きながらたどり着いたときには、

麺をすする体力も残っていないかもしれない。まだ車椅子は嫌だし。
40kg。以前は57kgあった。170cmだよ、まったく。

無理して食べても体重は増えないし、食べないと減る。
私の体は、この病を乗り越えようとする熱意に欠ける。
マコト君は、あたりまえだが私の専属の看護師というわけではない。

ちょっとした裏ワザを使って、
私物化しているのだ。この病院の理事長と私が、学生時代からの友人というだけのことだけど。
汚い手を使うには、理由もある。
入院患者たちには、体に問題がなければ、週に何度かの入浴時間が設けられているのだが、
私たちのフロアーでそれを許された患者は少ない。主治医の先生に言わせると、
「風邪をひくと、最悪の事態になりかねません」発言ママ、だそうだ。

最悪。医者は、死という言葉を用いない。
風呂と生命を引き換えにするのは、割に合わない。

私は体調のいいときに、マコト君に体を拭いてもらっている。
通常のケース、普通の病院なら、看護師の指名など受けるわけがない。

「ホストクラブじゃないんですから」
私が担当をいつもマコト君にして欲しいと、看護師長に申し入れたところ、事実そう言われた。

もとい、叱られた。
だから私は、大学のホッケー部と女子ホッケー部のチームメートで、

それこそどんな裏ワザを使ったか、
病院のオーナー家の婿養子となり理事長に納まっている友人に、

かつての悪行洗いざらいぶちまけるぞ、
をちらつかせて、トップダウンの命令というかたちで目的を遂げたのだ。
おかげで私はこのフロアーの若い女性看護師全員に、

「あのエロ婆ァ」と思われているはず。自業自得。
「オマエさあ、色気出してるタイミングじゃないよ」と友人。

違うのよ、色気出しておくタイミングなのよ。
生命に、色気を与えているのだ。
ベッドに横たわる私。その脇で作業を開始しようとするマコト君。
着ているものを脱ぐように命じられ、私はゆっくり乳房を露わにさせる、とでも書いてみようか。
実際には「脱ぎましょうね」と声をかけられ、

筋肉が落ちきった私は、力なくパジャマを脱いでいるに過ぎないのだが。
指名しておいておかしいのだが、私はマコト君に男としての何かを感じているわけではない。
25歳の若い男には興味がないし、背の低い童顔は好みではない。

いちいちどきどきしていたら、生命に響く。

ただ彼の事に当たる真摯さには、感謝している。

テレビのバラエティーも見られないくらい、神経が衰弱している。
悪意や過剰や面白半分に、耐えられない。看護師や医者に対してだってそうだ。
どの道いなくなる人々、と処理されるのはつらい。

すくなくとも彼は、私個人に付き合ってくれる。無理やり(笑)
むしろ彼のあまりの真摯さを心配する。

あまりの真摯さは、それを強迫する種子を心中に持っていることが多い。
ある日、思いきってマコト君に聞いてみた。

「私の体を、見たり触ったりして何も感じないの?」
「何も感じないようにしています」

自分は弱い性格なので、感情を持つと流されたり支配されたりする、と言う。
だから、相手(患者たち)から「心の視線を外している」のだ、と言う。
なるほど、彼は言葉を濁したが、

生や死や、深夜の徘徊や、ベッドを汚す糞尿に、毎回感情を発生させていたら、
どうかなってしまうだろう。

修行僧のような横顔で、お堂の床を拭く真摯さで、私の肉体を拭いていたのか。
私は床か。コノヤロ。
マコト君がいつもの配慮で緩めに絞ったタオルが、

私の胸の骨の上を木琴のように、カタカタカタカタと通過する。
まさか「感じる」わけではないが、血液が流れ始めるのがわかる。

呼吸が深くなる。肌が紅潮する。
化石のように固まっていた生命が再び、ガタゴトとぎこちなく、動き出す。
やがてマコト君のタオルは、下半身に侵入する。

無感動に。お堂の床が終わったら、つぎは柱。
かつて、その場所に侵入してくる男たちの手の目的は、ひとつしかなかったはずなのに、
ましてやタオルなんか握ってはいなかったのに、

情けないことよと嘆き、ふとその手の持ち主たちを思い出してみる。
それも名前と顔が一致しないくらい、遠くて曖昧な過去の男たち。隣にいる、若くて弱い私。
初めては確か16歳のとき。よくもまあ、あんな乱暴な行為をセックスと信じてたものだわ。
大学に入って部活で忙しかったけど、彼氏もいたし、浮気も二度ほどしたし、一人は部内ね、
でもここの理事長じゃなくって、

って私、どうしたんだろ、いつのまにか頭の中でマコト君に話しかけている。
みんな男たちは自分勝手なセックスしかしなくて、乱暴ではないけど今思えば、稚拙。

オレ流。ひとりよがり。
だって自分の方法しか知らないんだもの、男って。
それを、あの人この人比較してクールに採点してる女が、すぐそばにいるなんて知らないでね。
それにしても、ひとりよがりって言葉、こういうときぴったりだわ「ふふふ」
最後のところだけ声になってしまい、不思議そうな顔で手を止めるマコト君。
ごめんなさい、でも手を止めないで。もう少し思い出したいことがあるから。

 

夜行バスで、京都へ行く。
神社、仏閣、舞妓はん、おばんざい、そんなもの、どうでもいい。
ぼくにとって京都は、スミレが住む町でしかない。