コトバのコトバ

第 15 回 リカ

欲しいものが、手に入らない。理由はわかっている。
わたしの欲しいものが、わたしのことを欲しがっていないからだ。

それなら、思いつきで抱くな。
タツロウさんは、今日は電話にも出ない。

 

メールをしても、もちろん返事は来ない。

出会ったときから、めったに返信などくれる人ではなかったが、
いつのまにか「めったに」は「もちろん」になっていた。

もちろん!と確信が持てるほど、メールしたということか。
返信などなくても、いいのだ。

メールをするという行為自体を目的に、わたしはせっせとケータイのキーを押している。
もう、短編小説一編になるくらいの文字数か。題名は「ぬかるみ」がいい。
実は一日に二度、メールをもらったこともある。

二人のことが苦痛、苦悩、苦で始まるなにものかに変わる前のことだ。
一通めは、「今夜泊めてくれ」わたしは、いそいそと部屋に掃除機をかけ始める。
そのうち二通めのメール。「行けなくなった」

こうやって、繰り返して、隠れていた痛みが心の表層に出てくる。
恋愛とギャンブルは、ときどき似ていると思う。
父親と行ったウォーカーヒルで、

ルーレットで500万ウォンほど負けたことがある。親の金だが。
ギャンブルをしたのは、後にも先にもそれっきりだが、

あのときの「あの感じ」に似ている。
あまりに負け続けると、

勝ちたいとか取り戻したいとか、そんな気持ちは意識の奥に引っ込んで、
とにかくここから動きたくない、この勝負降りたくないがすべてだった。

ひきつった形相の内側は、泣きそうだった。
自分の理性が、バラバラになっていくのが怖かった。

それを知りながら、逃げ出せないのが怖かった。そんな「あの感じ」。
ギャンブルや恋愛にはそんなトラップがそもそも組み込まれていて、

そしてとくにトラップにハマりやすい人間がいて、
それが例えばわたしで。

恋愛ならストーカーが、「あの感じ」ユーザーじゃないか、

ってわたし、すでにストーカー?
彼は、もともとわたしが今働く会社の編集者だった。

いわゆる名物編集者だった。
初めて会ったのは、まだ学生のころ。わたしの家で。たしか新年会。

うちは、わたしの会社のオーナー家だ。
父親は彼が、大のお気に入りだった。

だからその後、彼が会社を辞めて独立したときの激高ぶりは凄まじかった。
就職と退職で入れ違えになったけど、ある作家の出版記念パーティーで再会した。

彼が主催者だった。
普段の(つまり素面の)彼は、噂の「名物」イメージとは異なる。

感情を露わにしない。知性的だが、面白みはない。
ところがお酒が入ると、埋蔵している言葉を発掘するように、饒舌になった。

明朗。攻撃的。イメージどおり。
小娘のわたしにも、平気で議論を吹っかけてきた。面倒なオヤジ。

昭和の古い男だ。まわりには、ひとりもいない。
それでも、わたしもわたしなりに、大人の世界を楽しんでいたんだろう。

彼がどうだというよりも、面白い体験。
しかしある夜、飲み会の帰りわたしも彼も泥酔して、

とくになんの交渉も合意もなく、渋谷のホテルに泊まった。
そのころちょうど付きあい始めた人がいて、

二股をかけるつもりはなかったが、彼とは一夜限りと誓う気もなかった。
彼はそれから、そんな女心を見透かすように、思い出したころに、電話をしてきた。
電話してくるときは決まって真夜中で(明け方含む)、決まって泥酔していた。
わたしは寝ているところを起こされた不機嫌よりも、彼を歓迎することを選んだ。
酔っぱらって、文字通りわたしの部屋へ転がり込んでくる彼の、

セーターを脱がし、ソックスを脱がし、
場合によっては下着も脱がすことが、気に入っていた。

一緒に食べる朝食も、気に入っていた。
いつのまにか、好きだったのだ。

無精ひげや笑うとやさしい目や疲れた横顔が、好きじゃなきゃそんなことできない。
しかしそのときはまだ、自分の二倍近い年齢の男に、

好きという感情を持つことがあるとは思っていなかった。
その男にハマり込んでしまう予感を、浮気という罪悪感に置き換えて、ごまかしていた。

浮気ならラクだった。
わたしとしての最大のミスは、「待っている」という認識を持ってしまったことだ。
そのおかげで、彼の存在だけでなく、彼の不在にまで気をとられるようになってしまった。
待っている。会いたい。彼はここにいない。

今なにしているのだろう?次いつ会えるのだろう?メールする。返事はない。
中学生のころ、太宰治の「カチカチ山」が好きだった。

哀れなタヌキの肩を持つのが一般的な読み方らしいが、
わたしはかわいそうともなんとも思わなかった。

なあタヌキ、お前が好きになったのが、すべてのスタートじゃないか。
それを「惚れたが悪いか」とは、逆恨みもいいところ。

なによりも、計算通りに相手を傷つけるウサギに憧れた。
自分はウサギ役のつもりで、ずっと生きてきた。それだけの条件にも恵まれた。

ところがどうだ、この最近の現実。
タヌキに翻弄されるウサギなんて、笑い話にもならない。

このあと、サメに皮をはがれるのか。それは別の話か。
あまりの心の苦しさに、なんとかしてくれ、放置しないでくれ、と訴えたことがある。
一度めは抵抗があったが、二度め、三度めは暗記しているように言えた。
彼はもちろん(また、もちろんだ)要求を聞き入れなかった。
理由・ぼくは離婚経験がある。生活もだらしない。

厳格なキミのお父さんが、許すはずがないことは知っている。
理由・気力も体力も衰えた。

キミのような若くてきれいで気の強い人とは、付きあえないと思う。(最後は余計だ)
そうはっきり言われれば、じゃ、なんでわたしと会うの?

もう来ないで、と言うことになる。言う羽目になる。
わたしは三度言った。

すると彼は、狼狽するでも気の利いた妥協案を提示するでもなく、「そうだな」とつぶやく。
卑怯だぞ。ひとが「来ないで」と言う以外ないように追い込んで、

ひとに結論を出させて、自分のアリバイを確保する。
年齢の半分の女に嫌な役を押し付けて、自分は肯くだけか、卑怯者。

絶対二度と「来ないで」なんて言うもんか。
耳掻きしてあげたときのことを、思い出す。

これもまた、まだ二人のことが苦しくなる前のことだ。
耳掻きの棒を奥まで突き刺すと、どうなるのかなあと無邪気に思い、

不意に、好意と殺意の意外な近さに驚いた。
今ならもう驚かない。好きも殺すも、同じ心から。

 

今朝も二日酔いがひどい。今朝といっても、起きたのは12時前だが。
まず、トモミの病室へ行って、以後のスケジュールはそれからだ。
腹が減っている。なにも食べないで、飲むからだ。

病院の食堂へ行こう。カレーライスが、結構うまい。