コトバのコトバ

第 13 回 ミサコ

ノリはわたしのことを、昔のように、名前で呼ぶ。
あれから5年たっているのに、なつかしいよりも、むしろ心地よい。
いけないことかな、と思いながら、

いけないと責める人のいないことに、まだ慣れていない。

 

ノリは、大学を卒業して就職した出版社の、同期。いわゆる、元カレ。
わたしが23歳から24歳にかけての1年間を、一緒に暮らした。

ハンサムで、おしゃれで、浮気者。
二人が1年で別れたのは、

たまった不満が吹き出す亀裂にすぎなかったとしても、彼の浮気が原因だった。
1度目はこういうものだった。

彼の外出中、わたしはクルマの中に、イヤリングを置き忘れたことに気がつく。
彼の自慢のコンバーチブル。

その中をあちこち探ると、出てきた。

わたしのものではないアクセサリーが。ざくざくと。
助手席のシートの隙間。ドアのポケット。エアコンの吹き出し口。

さあ見つけてくれと言うように。
ルームミラーにわたしがぶら下げた人形の足には、安物の指輪がひっかかっている。

うんざりするような、悪意。
リビングのテーブルの上に、ドラマで見た事件の証拠品のように、

押収したブツを並べ、ホシの帰宅を待つ。
そしてその光景を見るなり、床の上に正座する男。

言い訳するタイプの男だと思っていたので、意外だったが。
「前の彼女なんだ」そうだ。「相談があると言うので会った」そうだ。

「肉体関係が浮気ならば、それはない」そうだ。
だからなんだ?わたしが嘲笑するように鼻を鳴らしたら、黙りこんだ。

ハンサムで、おしゃれで、情けない。ため息。
あんな下品な悪戯を仕掛けてくるような女とも知らずに、相談に乗り、

なにやらあったのやら、なかったのやら。
浮気ひとつ満足にたくらめず、うつむくこの男が滑稽で、

そのときは1度くらいは許せると思った。
許すのをやめようと思ったのは、3度目。

1年もともに暮らすと、相方のささいな差異に敏感になる。
残念なことに、例の件の異臭がした。

言い訳をするわけじゃないが(その後にはかならず言い訳が続くのだが)
もう二人の関係に、わたしは見切りをつけていた。

そして卑怯にも、結果的には、別れるきっかけに利用した。
だから手っ取り早く、

彼のケータイのメールをのぞき見るという恥辱も、いとわなかった。
勘は正しかった。こんどのお相手は女子大生。

「日曜だから難しいけどなんとかやってみる」なるほど、前の日曜日ね。
浮気って2対1なんだな。あんまりだな。

浮気されるほんとうのキツさって、このさみしさなんだな。
しかしわたしは、泣きも騒ぎもしなかった。

その頃すでに(後の)主人と、出会っていたからだ。
なんの関係もなかったが、なんの予感も持たないわけではなかった。

泣いたり騒いだりしたのは、ノリのほうだ。
3度目の正直。未練も磨耗する。

わたしはわかりやすい被害者として、淡々と二人の仲を処分した。
しばらくは泣きの電話やメールが(あのケータイから!)入っていたが、

そんなもの完全に無視した。
そのうち、わたしと主人が付き合い始めたということが、

周辺に知られるようになると、連絡は途切れた。
わざわざ自分から、修羅場を演出するキャラではない。
再会したのは主人の葬儀の場だ。
突然の大きすぎる悲しみに気絶しかけていたわたしの前に、いきなり現れた。

嫌味でも言いに来たのかと思った。
しかし彼は、故人の古い友人という役を見事に演じきって、

どこでどう覚えたのか葬儀をテキパキと進めてくれた。

笑い話にできるくらい、つまりずいぶん後になってから、義母に聞いた話なのだが、
あの人(ノリ)なんかが、わたしをもらってくれるといいのにと、

親族で話していたという。

不謹慎な話だが、ヘンな気分。

やがて悲しみの大波が過ぎ、リアルな生活に戻らなければならなくなって、

古巣の職場に帰ることになった。
契約社員の立場だったが、ノリが積極的に上司に働きかけてくれたらしい。
古い同僚たちは、ヤツ、ヨリ戻したいんじゃないの?

と、面白そうにわたしに告げた。
まだそんな気にはなれそうにはなかったが、

なぜか無邪気なうわさ話を否定する気にもならなかった。
しかしそのうわさ話は、あっさり本人によって否定される。

彼には、社内に年下の彼女がいた!
総務の新入社員だ。廊下でいきなり会釈された。

わたしよりずっと年下のかわいい子。つまり事情は知っている、か。
彼の後ろをうれしそうについて歩く彼女を、会社の近所で見かけたこともある。

そういうタイプが好きだったっけ?

どっちにしても昔話の男じゃないか、と思ってみたりしたものの、なんだろうこの感じ。
彼の最近書いたものを読んで、驚いた。すこし、うなった。そして、黙った。
昔、わたしが知っていた彼の書くものは、当然、新人が書く程度のものだった。

そもそも、キャプションがほとんど。
私の父は、ヘンクツ文芸評論家だ。大学で教えている。

わたしが編集者を志したのは、そのヘンクツ親父の影響大だ。
とにかく理屈が多い(そこも影響大)父はよくこんなことを言っていた。
文章の力とは、その情報量である。わずか四行の詩にも、

はるかな地平を描きあげれば、一巻の巻物を成す。
ひとつの言葉が、知の水脈の発露ならば、読む人の脳に無限に知の泉がわく。
ひとつの信念が、極星になりえれば、

暗闇の中、人々を導くこともできる。ってことだったような。
もちろん、たかが雑誌のファッションページで北極星を示されるのもどうかとは思うが、
「男の靴は、変形した後に」で始まる800字程度の文章は、

情報の埋蔵量が、説得力となって地上に現れていた。
それをどのように獲得したかは、わたしは知らない。

ただ、あの日から、彼の得たものと、私の失ったものを、思った。
息子を親に預けた夜、とにかく男と飲みたかった。思いつくのは、ノリしかいなかった。
彼のおかあさんが亡くなったことを、知った。

あの頃、よくしてもらった人だ。だから、葬儀の進行に慣れていたのか。
文章をほめると、横顔で笑った。

かつての細い糸が、何十本と紡がれて強くなったような笑顔だった。
酔っていたことにして欲しい。

「前の彼女を口説くのは、得意なんじゃなかったっけ?」ああ、嫌らしい女。
彼は、ハンサムで、おしゃれで、すこし悲しそうに、

「浮気は、もう、やめたんだ」やられた!お見事!

 

好きだと、好きでたまらないと言われた。
好きになろうと思って、好きになった。
ようやくそうなったと思ったら、

ぼくを好きでたまらなかったリカは、もういなかった。