コトバのコトバ

第 12 回 サトル

ミサコさんは、風呂に入っている。シンジはもう寝ている。
兄貴がミサコさんとシンジを残して逝っちゃってから、3年。
オレが15歳から18歳までの3年間。正直、苦しかった。

 

息苦しかったというほうが、近いな。

古い紙とあたらしい紙の、のりしろのようなところに、立ち尽くしていたから。
自分はここにいるのに、

すべてが静かに変わって、自分をそっと置き去りにしていくのを、息を潜めて見ていたから。
3年前、兄貴の四十九日が済んだ後、度を越した悲しみがようやくおさまりかけていた頃、
ミサコさんに「実家には戻らないのか」と尋ねたことがある。

あの事故以来、感情やら時間やらを共有することで、
オレは彼女との連帯感に高揚していて、

そう言ってやることがやさしさだ、みたいな気分だった。15歳のくせにね。
彼女の答えは、あの混乱の中いつそんなことを考える余裕があったのかというくらい、

明快でしっかりしていた。
「当然考えたが、すぐに否定した」彼女は、こう考えたらしい。
世間では、わたしのような女のその後の人生を、

おおかた結果の出たゲームの、いわば敗戦処理のように見る。
ましてや家に帰れば、出戻りだ。つぎは、出直しだ。

「再チャレンジ」のスケジュールに急かされる姿が目に浮かぶ。
わたしはわたしの人生に、悔いも再もない。

生まれてから、これからもずっとひとつながりのものだ。
もしあの事故で、人生をそれまでとこれからに分けるとすると、

「彼の居場所が失われてしまうじゃない?」
不意の涙に、ガキの無邪気の愚かさを思い知る。

彼女は逆に、へこむオレの気持ちを切り替えてくれるように
「それにしても、未亡人って呼びかた、ひどくない?

いまだ亡くなってない人!絶対長生きしてやるわ」と笑った。
オレもいちおう笑ったが、

そのときはまだ、自分がほんとうにへこむことになる状況には、気がついていなかった。
ある日一人家にいたら、

たしか税務署から(どこからでもよいのだが)ミサコさんに電話があった。
耳慣れない名字に、一瞬間違い電話かと思ったが、それが彼女の結婚前の姓だった。
体は出戻らなかったが、戸籍は戻っていたらしい。

どうやら、その姓でやっていくらしい。もはや「旧姓」ではない。
復帰した出版社でも、その姓で結婚して退職、

そしてその姓で再就職したわけだから、「旧姓」でこと足りる。
古い友人にも、これから出会う人にも、不自然さはない。そうか、なんてことだ。
彼女がどのように思ってくれようとも、

兄貴の(オレの)姓は、彼女の現実には、もうほとんど流通していない。
つまり、オレの知っている「彼女」は、もういない。
相当キツイ話になりそうな予感が、ようやくあった。鈍いヤツ。情けない。
「きれいなお義姉さん」に萌える気持ちはわからないでもない。

きれいなお義姉さんと暮らし始めて、3年がたつ。
オレがその「萌え」に、もだえ苦しまなくてすんだのは、

初めて会ったのが13歳のときだっていうのもあるが、
オレにとって大切だったことは、たんすの中の彼女の下着ではなく、

自分に家族が増えたことだ。
オレと兄貴には、兄貴とオレしか、肉親がいなかった。

オレはもう、上手に甘えることのできない年齢ではあったが、
知らない同士から始まり、距離を測り、距離を縮め、ひとつ屋根の下生きてきた。

ミサコさんのつくってくれた卵焼きを、味噌汁を、肉じゃがを、

自分の家の味と信じられた。いまもそうだ。
だからそれは、兄貴のいるいないとは、すでに関係ないはずだったのだが、

どうもそうではなかったらしい。
息苦しさは、予感から実感にいつの間にか育っていた。

遅かれ早かれ、なのだ、結局。のりしろは、長くない。
1年ほど前から、同じ夢を見るようになった。
ボールがころころと転がっていく。それをオレが拾いにいく。

まっ黒な空間に子供のオレが、ぽつんと小さくいる。
→ボールがころころと転がっていく。それをオレが拾いにいく。

まっ黒な空間に子供のオレが、ぽつんと小さくいる。
目が覚めるまで、エンドレスに繰り返される。

ダイレクトすぎて、意味を夢占いに問う必要もない。オレでもわかる。
家族が、跡形もなく、なくなっている。
この3年間は、オレのことだけ言うと、1.6mの木が1.8mになる、

そんな時間経過に過ぎなかったように思う。
ずっと同じ場所で、同じような毎日を、

とてつもなく大きな喪失感を抱えてはいたが、積み重ねてきただけだ。
ただ、まわりが、オレに断りもなく、まあオレに断る必要もないし、

まるっきり変わってしまっていた。
第一象限にいるつもりが、座標軸がずれて、

気がついたら第三象限にいた、みたいな、ってわかりにくいか。
公園で遊んでいたら、いつの間にか友達たちは自分の家に帰り、

まわりは知らない人ばかり、って淋し過ぎるか。
とにかく、ほんとうは、もうここには、なにもないのだ。
それでもさらに、この「一つ屋根の下」を続けるならば、それは家族ごっこか。

家族ごっこを、3年やってきたのか。
そんなもの、気がついたら、もう続かない。気がつかなければよかった。
彼女は、すでに認識しているんだろうか?

きっと、いつの間にしたのかと思うくらい明快な整理が、すでにできている。

知りたいし、知りたくない。知ることになるものは、結論だ。それで終わり。
(もうお義姉さんって呼んでもらうわけにはいかないの)妄想。orz
ポイントは、男だろう。(ろくに恋愛なんかしたことないのにエラソーに)

彼女に男ができたら、事態は急変する。
男は、彼女が前の夫の家族と、ましてや若い男と一緒に暮らすことなど許さない。

オレだったら、許さない。
そうか、いっそオレが、あたらしい男に!(ホンキか?)
シンジがおじいちゃんおばあちゃんの家に泊まってくる夜、

ミサコさんがめずらしくお酒に酔って帰ってきた。
もはやこれまでどおりではない、とすると「きれいなお義姉さん」は、

あまりに他人で、女で、切なく、悩ましかった。
(男はいるんだろうか?)

オレは風呂に入っている彼女のケータイを見て思った。(パスワードも知っているぞ)
家族は最強のストーカーだな、アブナイアブナイやめたやめた、苦笑い。

恋愛でもしよう、一人はいやだ。

 

ノリはわたしのことを、昔のように、名前で呼ぶ。
あれから5年たっているのに、なつかしいよりも、むしろ心地よい。
いけないことかな、と思いながら、いけないと責める人のいないことに、まだ慣れていない。