コトバのコトバ

第 8 回 ヒトシ

ナナコに子供ができたらしい。のぞみで東京へ向かっている。

飛行機は嫌いだ。
7人めか?いや8人めか。いや7人めか?
車中で缶ビールを5本開けたがぜんぜん酔わない。

 

博多発最終。10号車は喫煙車。タバコを吸わない私が何故に。

理由は子供連れがいない確率が高いから。
私は子供が苦手だ。無邪気という名の暴力。

自分は許されている、愛されていると信じて疑わない厚顔。

そしてその親たち。

いちどこういうことがあった。

急な用事のため、どうしても飛行機の移動となった。
しかもノーマルシートしかとれない。

3日間で10時間も寝ていない。くたくただ。
酒でも飲んでせめて寝てしまえという場面。

運悪いことに後ろのシートには推定3歳女児とその若い両親。
甲高い子供の声をイヤープラグと寛容の心でなんとかふさぎ目を閉じていると、

父親が童話を読んで聞かせ始めた。
さすがに後ろを振り返り、

おいおいなんで私がおまえの

『しろいうさぎとくろいうさぎ』を聞かされるんやと言ったところ、その父親、

子供に童話を聞かせることの何が悪い、あんたには社会性がないのかときた。
ちょっと待て、こっちのセリフだ、こっち側が社会だ、噴飯だ。

社会に社会性を求めてどうする。勘違いも休み休みだ。
ああそうかそうかアホなんか。

ならしょうがないなと鼻で笑ってやったのに、このクソオヤジと案の定の逆ギレ。
子供は泣きわめく。あたりは騒然。スチュワーデスは飛んでくる。

しかもどうやら私のほうが分が悪い。
泣く子に勝てぬのは言い習わされた通り。やれやれだ。こりごりだ。

子供は大の苦手というわけだ。
そんな私に今また子供が授かる。

世の中には子宝に恵まれず悩む人も多かろうに、天の配剤は時に不適正だ。
(後日談。件の父親、私の病院への納入業者の社員と判明。

即日業者ごと出入り禁止。社会性を知ることになる)
ナナコにあったのはおよそ1年半前。
東京のテレビ局の「湯けむり紀行なんたらかんたら」の撮影で、

私が3年前に買収した温泉ホテルに来た。
露天風呂に浸かって、浴衣を着て、晩飯を食って、

どこかで聞いたようなコメントを述べるという、
冬になると毎週どこかのチャンネルでやってるような、

ありふれた番組のありふれたレポーター。
(もっともそのおかげでわがホテルは、以後半年間満室になったが)
きつめの美人。面長。長身。

いつもこういう女を見ると、自分のものにならないかと思う。
ただその時は、ひどく疲れているなという印象を持った。

そうか温泉だからちょうどいいか、とのんきに思った。
撮影スタッフに素性をたずねてみると、

3年ほど前まではお天気お姉さんとして人気だったらしい。
しかし野球選手との不倫を写真誌に撮られてから人気も一気に落ちたらしい。
そういうことに疎い私はそうらしいとしか知らないが、

仕事仲間に陰口をきかれているのは不憫だなと思った。
撮影後、廊下を通りかかった彼女に声をかけて酒を飲んだ。

私専用のプライベートバーがホテルにある。
そこで携帯の番号を聞いて、3日後には西麻布の彼女の部屋にいた。
公称25歳、実は32歳。

すさまじいサバの読み方もあったもんだ。疲れも顔に出るだろう。
しかし還暦前の私としては、

感情も肉体も少々くたびれていたほうが都合がよろしい。

そのほうが落ち着く。
さらにナナコには、ヘンな言い方だが、妙な場末感がある。演歌っぽいというか。
芸能人の端くれだから、芝居をやるなら飲み屋の女将役か。

しかしそれを役柄でなく地で行っている様子がある。
住んでいる部屋も西麻布の地名はともかく、

8畳+キッチン4畳半の築30年、ダイヤハイツ205号室。
もう少し広いところに住むのならば用立てようかと言ったところ、

構わない、お金なら持っていると言う。
聞けば人気落ちとはいえ並みのOLの何倍も稼いでいる。

訳あってお金を貯めているがこの暮らしに不満はないと。
ならば私も色男役を気取ってこの女と寄り添い、

上京ごとに近所の焼き鳥屋でまずい酒飲むのも面白い。
いっそこのまますべてを捨ててこの女と落ちていくかとベッドから体を起こしたら、
目に入ったのがハンガーにかかったエルメスのカシミアジャケット。

電話ひとつでデパートの外商が持ってくる。
安い服の似合わぬオッサンの、しょせん落魄ごっこかと苦笑い。
本気でもごっこでもいい、いずれにしてもナナコが気に入った。
新神戸21時03分。まだ行程の半分もいってないのか。
缶ビールが水割りに変わり

空き缶が窓際を埋めるころには車内は疲れ果てた旅人ばかり、
起きているのは私だけ。若いころ、こういうシーンをなにかで読んだことがある。
主人公が自らの無頼の所以を、自分の体の強さに求めるくだり。

当時も腑に落ちた。えーっとたしか、火宅の人。
私が自分のペースで動くと、まわりがついて来れずにばたばた倒れていくのを、

何度も何度も何十年も見てきた。
ペースを落としてレベルを下げてみんなで仲良くご一緒に、

なんて考えるはずもなく、途中からはいつもひとりだ。
力尽きて倒れた者たちのその先で、ぽつねんとひとり立っている。

そのさまを独裁者と呼ぶ。おかしくないか。
おかしな話もあるもんだ。

速い者が前に行く。強い者が上に行く。

高いところからはよく見える。よく見えるからまだ行ける。
そんな小学生でもわかる道理で済まないから、なんとも世の中は面倒くさい。
いちどそんな話をナナコにしたら、

あなたほど弱い人はいないのにあはははは、と昭和のあばずれのように笑った。
面白いことを言うやつだ。なんで知ってるんだ?
京都21時31分。以前この街にも女がいたな。
海外旅行をせがまれていやいや飛行機に乗った時のこと、

茨城あたりの上空から眺めた池や沼が気になった。
興奮した。むずむずした。それを女に告げると、

一瞬間があって、夢占いでは底なしの性欲、と言った。
そんなことを思い出していると、隣の席に若い女。長身、面長、きつめの美人。

 

お腹の子はヤスヒコの子だ。確信がある。
母親ならばわかるもの、とかそんなロマンチックなものではないと思う。
私が妊娠するならば、父親はあの男とあらかじめ決まっていたのだ、みたいな。